Dance it off!

第一話



大学に行く理由って、なんですか。

人にはその人の理由がある。だから、こう質問を投げかければ三者三様の答が返ってくるだろう。

色んなことを学びたい。就職に有利だから。まだ社会人になるには早過ぎる。青春を謳歌したい。

別にその理由にいいも悪いもない。事情は人によって違うからだ。

個人がそれでいいと思えば、いつだってそれが最良の選択肢なのだから。



「―君、一年生だよね?アメフト部入らない?」

生まれ故郷の袋井を離れて、静岡市で生まれて初めての一人暮らし。都会生活を満喫できるとおもいきや、よりによって山の上に鎮座するこの静岡大学で18歳の春を迎えた春日井黎は呼びかけの声に振り返った。視線の先に映るのは花も恥じらう初々しい女子大生―ではなく、筋骨たくましい男子学生。『ようこそアメフト部へ!』とプリントされた たすきをかけている。

なんだ、男か。

黎は今目にしたものにやれやれと頭を振った。

「―彼女の出来る可能性が低い部には入らないことにしてるんで」

すんません、と黎は軽く頭を下げると足早に勧誘員の横をすり抜ける。アメフトが悪いとは言わない。しかし、男ばかりの部活では黎が大学に入った目的を叶えられそうにない。

春日井黎が、大学に入るその理由、それは―。

「そこの君!フットサルやらない?」

三歩と行かないうちに、再び声をかけられた。今日は新年度最初の授業日なので、校舎の外はどこもかしこも新入生を自分の部に引き込もうと熱戦を繰り広げる学生で溢れかえっている。初々しい顔をしたものは皆、等しく彼らの獲物なのだ。

なんだ、また男か。スルーを決めかけた黎の耳に禁断の言葉が飛び込んでくる。

「フットサル部なら女の子との出会いも沢山あるよ?!どう、入らない?」

その抗うことの出来ない魔法の言葉に彼は思わず足を止める。そのまま口まで開いてしまった。この言葉の持つ魔力は年頃の青少年には無限大だ。

「それ、本当ですか」

「もっちろん!やっぱりフットサルできる男はモテるからね。黙ってても女の子が群がってきて嬉しい悲鳴だよ?」

むしろハーレムだよ!と『フットサル部部長』というたすきを掛けた男子学生は手を擦り合わせる。なんとも怪しげだが、黎はそんなことを気にする様子はない。それどころか部長らしい男のいうことを頭から信じきっているようで、手渡された勧誘チラシに熱心に見入っている。都合の良さすぎることは取り敢えず疑ってみるという精神は彼には存在しないようで、良く言えば素直ーもしくは、ただのバカーに違いないと部長ー工学部2年の中切蒼汰は頭の中で算段をつけ、舌なめずりをした。

この男、ちょろいな。この調子なら今年もがっぽり新入生をゲットできそうだぜー。これで今年度の部員獲得レースの上位は間違いないな。

くだらないといえばくだらないが、ありとあらゆる面で無駄なしのぎを削ってしまうのが若者というものである。

黎はようやくチラシから顔を上げると真剣そのものの表情を顔に浮かべ、男の方を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、どこまでも澄み渡っている。それでいて、強い意志が感じられる眼差しだ。黎は口を開くと、はっきりと部長に問いかけた。まるでそれを問うことが彼の生死を左右する重要な事柄であるかのように。

「本当ですよねー。出来るんですよね、彼女?」

そう、彼が大学に入ったその理由とはー運命の愛を見つけること。もとい、人生最初の彼女を作ること。

ただそれだけだ。



出身高校はその地区のトップ高とはとはいえ学内順位は中のぐらい。もともと対して頭がいいわけでもない彼が、死に物狂いで勉強して静大を目指した理由。それは、国立大学だから、とか学費が安い、とか静岡は県内で馴染みがあるから、というもっともらしい理由などではなく―。

静岡大学が全国で有数の学生の同棲率を誇るから、という出所不明の都市伝説を真に受けたからということにほかならない。

同棲、という単語から連想されるのはたった一つ。

―カップル成立可能性が非常に高い、ということだ。

春日井黎18歳。袋井出身。彼の人生の目標。それは―運命の伴侶を見つけること。

「出来る出来る!だからこの紙に君の名前と住所と電話番号と印鑑を―」

あと出来れば保護者の住所、名前と年収なんかもよろしくお願いしますねー。

中切はこの機を逃すまいと慌てて手提げ袋から入部届けを取り出した。この個人情報保護の時代にも関わらず、妙に記入項目の多いその用紙を受け取った黎は、とくに何の疑問も持たずに言われた通り記入を始める。

「あ、今日印鑑持っていないんですけど」

「あ、いーよいーよ!じゃあ拇印でokだから」

張り付いた笑顔のまま、中切は懐から朱肉を取り出す。

なぜ大学の入部届けごときに捺印が必要なのか。そもそもこれは本当に入部届なのか。実は彼らは後でここで収集した個人情報を転売屋にでも売り飛ばすつもりなのでは無いのか―ツッコミどころ満載、というよりツッコむところしか無い疑問の用紙。

本来の国公立の大学生なら当然浮かびそうなはずの根本的な問もなく、黎が言われるままに親指を朱肉につけようとしたその時の事だった。

**

「人・・・来ないね」 商学部1年の守山朱里は数メートル先の人だかりへ視線を投げかけるとすこし悲しげな声を出した。本来なら新入生である彼女はむしろその人だかりの中にいるほうが自然だが、一桁のころから兄と慕う1つ違いの先輩、北直博が晴れて念願のダンス部を設立するというのだ。それに参加しないで一体どこに入るというのか。

「向こうには結構いるけどね」

 見たままの事実を淡々と双子の弟の光が述べる。男女だから当然二卵性双生児だが、それでも朱里と光の外見はよく似ている。それこそ朱里の男版が光であり、光の女版が朱里といってしまえるほどに。遺伝子の配列がミソなのか、身長も男女とはいえそこまで違ってもいない。そのせいで、子供のころから今までに至るまでずっと二人一組扱いをされてきた。当然大学も同じ学部、同じ学科で専攻コースまで同じ。ここまでくると異常だが、本人たちがそれほど気にはしていないので問題ではないらしい。

「最低あと2人、あと2人・・・」

 北直博は顔に暗い影を落としながら双子の隣で盛んに指を折る。ほとんどうわ言のように繰り返しているその様子から、彼がどれほどまでに追い詰められてるのかがわかるだろう。それもその筈、周りに大見え切ってダンス部設立を宣言したものの、肝心の部員数が最低部員数に達していないのだ。4月の初めの頃ならまだ言うほどには状況は危機的ではないのかもしれないが、今はもう4月も半ばを過ぎている。もしGW過ぎても規定の5人をクリアできなかった場合ー

「ー正式な大学公認部活動団体としてのダンス部の認可は不可能となりますね」

北の脳内にあの憎き生徒会の魔女の声が響き渡る。その場合は、ただの同好会として届け出を出すことになるのだがー

「別に同好会でもいいじゃん。どんどん大会とか出て知名度上げればいいだけの話じゃね?」

光は世界の終わりを目撃しているかのような悲壮感を湛えた姉と兄貴分に冷静にそう告げる。見た目こそ姉に瓜二つだが、こう見えて中身は随分違う。

「だめだぁああああああああ!同好会じゃダメなんだ!部活じゃないと!」

突然絶叫した北は頭をかきむしるとその場で悶絶した。その声にぎょっとした周囲の別の部活の勧誘が一瞬北のほうを振り返ったが、3人は周囲を気にする素振りはない。

ー同好会では補助金の予算がつかない。当然部室の優先使用権も失われる。それだけではない。何より、彼を常日頃から散々バカにしているフットサル部の中切の目の前であれだけ啖呵を切ってしまったのだ。示しがつかない。

彼の男としてのプライドが、痛く傷つくのだ。

ついでに、彼は非常に打たれ弱い人間でもあった。自慢じゃないが、部活設立に失敗した場合の周囲からの中傷・嘲りに耐えられる精神構造は持ち合わせていない。

「ええ、そうね北直博さん。そして、申請書の提出期限まではあと正確には1週間と1日と4時間よ。提出は紙媒体のみ、委員会室での手渡し以外は一切認められていないから注意したほうがいいわ。―私は、決して例外を認めないから」

生徒会の魔女ーもとい、静岡大学生徒会書記の瀬古景子はメガネのツルを上げると冷淡に言い放った。どうやら先ほどの声は北の幻聴などではなかったようで、恐ろしい程に絵に書いたクール系秘書のような身なりをした彼女がやや軽蔑の色を浮かべた眼差しで座り込む北を見下ろしている。いや、見下しているというほうが正しいかもしれない。

「せー」

顔を上げると、絶望を浮かべた表情で何かを言いかけた北に瀬古はピシャリと言い放った。

「仮に締切日に天変地異および災害が発生した場合でも、期限延長はしないわよ」

「うう」

「それに、下手な小細工も無用よ。万が一、あなたが架空の人物を使って必要部員数を確保する計画を考えているのなら今のうちに警告しておくわ。ー私を、いえ、私達生徒会をー舐めると地獄を見ることになるって」

「いや、そんな事は決して考えてはいなかった・・・とは言えないが、でも今は正々堂々と部員を集めようと思っている!本当だ、信じてくれ!」

「思ってたんじゃない、やっぱり。あんたって、とことんクズね。あんたの姿が視界の端に入るだけで目が腐りそうよ」

「確かに、ダンス部設立を宣言した時に少し調子に乗りすぎていたことは認めよう。でも、だ。考えてみてもくれ。たった、たった5人だろ?それならなんとか集まるはずー」

「無理ね。あんたには。あんたは全てに失敗するってこの世の論理でそう決められているのよ。あんたはけっして部員を集めることはできないし、これから残りの人生ずっと負け犬のままね」

「そこまで・・・言わなくても・・・」

矢継ぎ早に繰り出される瀬古の口撃に、北のメンタルは早くも限界を迎えていた。彼の精神があっさりと白旗を掲げると、きゅう、という奇妙な音とともに彼ががっくりと膝を折り地面に崩れ落ちる。ショックのあまり気絶したらしい。

「ああっ、ナオ先輩!しっかり!」

その姿に驚いた朱里が北の元へと駆け寄った。この小娘の北への献身的な態度にはある意味感銘するが、所詮馬鹿の仲間は馬鹿である。失神した彼に一ミリも同情することなく、瀬古は鼻を鳴らした。 曲者ぞろいの生徒会役員の中でも切れ者のほまれ高い瀬古景子はこの男ー北直博のことを心から軽蔑していた。出会った時からずっと。

彼女は負け犬が嫌いだ。そして、北直博と言う人間は生まれながらの負け犬だった。負け犬の中の負け犬。彼女の潜在意識は、もはや生理的なレベルで北という人間を拒絶している。ー彼女が受け入れるのはいつだって人生の勝者だけ。

 第一、気軽にダンス部設立などと大ぼらを吹いておきながら、最低部員数も確保できない人類の屑のような最下層負け組とこうして言葉を交わしていることすらもはや慈悲ともいえる行為だ。そもそも、本来なら彼は彼女の半径1kmに接近することすら許されない存在なのだ。同じ大学に所属する学生であると認識することすらおぞましい。きっと、センター試験のマークシートの読み取りミスでもあったのだろう。そうでなければ彼が彼女と同程度の学力を有しているなどという現実は到底受け入れがたい。

この静大一の、いや、静岡ーの負け犬が。あんたの可愛い子分たちとともに、精々締め切りまで足掻くがいいわ。ー無駄だけど。

瀬古はそんなかれを小馬鹿にしたような嘲りの表情を浮かべると、楽しげに口角を歪めた。

「ーまあ、締め切りまでまだ多少の日にちは残っているわね。最後の最後まで希望を捨てることはないわー。奇跡が起こる可能性は0.3%ぐらいは残されているかもしれないかもね」

つかつかと北と朱里の元へと歩いて行くと、朱里がビクリ、と身体を引きつらせるのが見えた。すこし怯えた表情を浮かべつつも、北を庇うように覆いかぶさる。瀬古はそんな彼らから数十cm程までにじり寄ると、10cmはあろうかという殺人的なヒールの先を思い切り地面に突き刺した。その衝撃に、意識を失っているはずの北の身体が震えるのが見える。身体の芯から敗者が染み付いているらしい。所詮、彼らは彼女には逆らえないのだ。ーそういう風に、この世はできているのだから。

 視界に映る頭頂部を蹴っ飛ばしたい衝動をなんとか抑えると、瀬古はもう一度冷たい視線を北に投げかけた。彼女は誇り高き生徒会書記だ。まだ、視察しなければいけない部活は山のようにある。永遠にこの男に構っているわけにはいかない。別れの挨拶に代えて、北を抱き起こそうとしている朱里へと最後の言葉を投げかけた。

「ー人生一度ぐらい死ぬ気を出してみることね。確実にこれが最後のチャンスでしょうから」

そういうと、踵を返したその時だった。

「瀬古先輩ー」

双子の女のほうが自分の名前を呼んだ。振り返って眼鏡のツルを上げると、朱里の真っ直ぐな視線が彼女の氷のような眼差しとぶつかり合って火花を散らす。朱里は決意をにじませた声で、ぐっと拳を握ると周りを憚ることなく声高に宣言した。いや、もしかしたら周囲に聞かせるつもりだったのかもしれない。

「私、決して諦めません!絶対に、期日までにー部員を集めてみせます。ダンス部を、ナオ先輩の果たせなかった夢を、私が引き継いでみせる!」

「いや、まだ死んでないし」

その隣で双子の弟がぼそりと呟いたが、一度盛り上がってしまった気分はそう簡単に収まるものではない。朱里は真摯な色を湛えた瞳を瀬古に向けると、きっと相手の目を見据える。瀬古はその様子を声に出さずにあざ笑う。

だからどうだというのだ。彼女もまた、兄貴分同様無力な存在だ。瀬古はそんな彼女の純粋そのものの瞳を目にしてもなお、怯むことはない。

「ーそう、それはよかったわね、守山さん」

だってこの女はー彼女の先輩同様ー

とんでもない馬鹿なのだ。お花畑思考というか。

夢は見られるうちに見せてあげるのが、年長者としての優しさ、ってものよね?

「ーお手並み拝見、と行きましょうか」

瀬古はそう言って高らかに笑った。その反応に、朱里がぐっと唇を噛むのが小気味いい。

どうせ、来週の今頃には彼のダンス部成立の夢はあえなく潰えているのだから。北は守山双子以外の部員を集めることなんて出来やしない。それまで、十分にこの茶番を楽しむとしよう。

**

「うーん、でも即決もどうかと思うし。やっぱり一晩考えてもいいですか」

 黎は今まさに印を押そうとしていた手を不意に止めると、顎に手を当てて思案顔になった。

「言っておきますが、俺は本当に真剣に彼女を作りたいんです。だから、それを妨げるような活動してる暇は無いんですよねー」

 眉間に軽い皺を寄せた黎は、少し厳しい表情をすると腕を組む。

第一、俺中学は書道部で高校はボランティア部だったんで運動部に入ったこと一回もないんですよ。と今更のように付け加える。

ー今それを言うか。部長はその理由の無い上から目線に頭の血管が切れる音を聞いたが、ここは我慢処である。新入生勧誘は入学式から最初の1ヶ月が正念場だ。なんとしてもGW前に一定数の入部者を確保しなければ、その後夏に訪れるであろう最初の退部ラッシュを乗り切ることができないではないか。まずは質より量である。こんなバカでもいないよりはマシなのだ。

素早く視線を左右に走らせた辺り、他の部活の勧誘の声が耳に入ったに違いない。どこの部活も大体の売りは「男女の出会いが豊富なこと」だからだ。そういう意味では適度に大規模な部活ならどこだって対して違いは無い。ちなみに、その文句の真偽の程は保証できない。広告というものはいつだって誇大なのだ。

彼の変心に焦りを感じた中切は、なんとか黎を引き留めようとさらなる誘惑を繰り出す。

「未経験者大歓迎だから!それに、彼女ができるだけじゃない。フットサル部に入れば君もあっという間に大学カーストの上位の仲間入りできるよ?いきなり人生の勝ち組だよ?誰だって好き好んで負け組になりくはないだろ?負け組になったら彼女も出来ないしな」

「確かに」

真剣な顔で黎が頷く。形勢が再び彼に有利になり始めた中切はこのまま一気に押し切ってしまおうと血走った目で辺りを素早く見回した。手っ取り早い犠牲者が必要だ。そう思いながら見回した視界の端に、地面に倒れこんでいる北と彼を庇うようにして跪く守山双子の片割れの姿が飛び込んできた。彼の頭上で電球が瞬く。彼こそ、スクールカースト最下位の人間のこれ以上ない最適な具体例ではないか。

「オレたちみたいな勝ち組はさー、負け組の奴らをとことん罵倒したりすることが許されちゃったりするわけ。オレたちに媚びへつらう奴らの情けない顔、サイコーだよ?ぜってーやみつきになるって。勝者の光景っていうかな」

中切は軽く呼吸を整えると、咳払いをしたのち北を方向を指さした。

「で、負け組の具体例っていうのはあれね

」 黎は言われたとおりに中切の視線の先を辿る。指のさきには瀬古に罵倒されている青年とその側に寄り添う美少女ーと、他1名ーの姿があった。女神のような清らかなオーラと、鈴を転がすような涼しげな声の女神の姿に彼の視線は釘付けになる。

青白い炎の弾が地上を直撃すると、辺りが白くまばゆく輝く。空は突然雷鳴でとどろき、風が起こった。とてつもない嵐が来るーそんな予感がした。あくまで黎の脳内イメージだが。

ありえないほどに目を見開いたまま指の先を凝視する黎に、異変を感じとったフットサル部部長は慌てて言葉を続ける。何を見ているのかは知らないが、彼の意識をこちら側に引き止めなければ。

「あれは静大きっての負け犬の北直博だ。あいつはいつも大ボラを吹くものの、何をやってもまったくものにならないどうしようもないカス野郎だ。今回もダンス部を設立するって息巻いてはいるもののー」

「横の女の子は?」

黎は中切の説明をどうでもよさそうに遮ると、首を彼の方へと向けて問を投げかける。

「はあ?いやね、俺が言いたいのはああいう負け組をー」

「で、横の女の子は誰なんですか」

黎は先程よりやや語調を強めるとおなじ質問を発した。先ほどまでのぼんやりした表情の青年はそこにはもはやいない。中切はこめかみから謎の液体が流れ落ちるのを感じる。決して、冷や汗、などではない・・・・。はず。

「ーというわけで、イケてるやつらばっかりのオレたちみたいな部員しかいないフットサル部に入るのがオススメ、っていうかもうそれしかないー」

「隣の、女の子は、一体、誰なのかって、聞いているんですよ」

彼の質問に答えようとしない中切にしびれを切らした黎は。先ほどまでのぼんやりとした頭の悪そうな表情からは想像もできないすさまじい殺気を放ちながら中切に詰め寄った。その豹変っぷりに、中切は思わずヒィ、と悲鳴を漏らす。

「・・・も、守山だよ。守山朱里。北の腰巾着の」

だからTシャツ掴むのやめて!と絶叫するとようやく黎は中切を開放した。身長はほぼ同じぐらいのはずなのに、その圧倒的なー怪人的な腕力に中切はぜいぜいと息を切らす。この男、普通じゃない。

「守山・・・朱里か」

 黎は恍惚とした表情を浮かべると、味わうように今知ったばかりの女神の名前を舌の上で転がす。その常軌を逸した表情は、完全にマッドマンのものだ。中切の頭のなかの「立ち入り無用」アラームががんがんと鳴り始める。もしかして、いや、もしかしなくてもーこの男、おさわり禁止物件なのではないだろうかー。もうこの男の入部のことはすっぱり諦めて、さっさと立ち去るべきなのではないだろうか。そう頭の中の中切達が激しい熱論を交わし始めたその時。それまでうっとりとその場に立ち尽くしていた黎が、我に返ったようにはっとするといきなり小走りで走り始めた。

「そう、って・・・え?!春日井君?!どこいくの?!」
「俺、決めました!っていうことで、すいません!」

・・・君子危うきに近寄らず。相手がマッドマンならなおのことだ。ーそれが中切が学んだ本日のライフレッスンだった。

**

 地上に舞い降りた天使、だと思った。いや、その神々しい姿は寧ろ女神といったほうが正確か。

彼の瞼の裏に、あの日の情景が蘇ってくる。あれは高校の卒業式の日のことだった。それまで熱をあげていたクラスの女子にこっぴどく振られた彼はとめどなく大粒の涙を零しながら一つの誓いをたてたのだ。彼女に恋してた期間は卒業する最後の月だけだったが、今はそんなことはどうでもいい。その誓いというのは、

ー大学で、彼女を作ること。

そうだ。黎は物心ついた幼い時からずっと彼女を作ろうと奮闘してきたのだ。母親が公園デビューに彼を連れだした運命のあの日。彼の努力は奇妙なまでに結果に結びつくことはなかったが、10十年の時を経てもなお、彼の情熱は衰えることはない。それどころか、今この瞬間に未だかつて無いほどに燃え上がろうとしていた。

 北を庇って瀬古に反論する朱里の姿を一目見たその瞬間、彼の身体に電流が走った。あの時に誓ったあの固い決意ー絶対に、大学で彼女を作るーが成就する瞬間がようやくやってきた。そう確信した。理由は、と聞かれればはっきりと答えられる自身は無かった。彼はいつだって特に理由もなく恋に落ちるタイプだったから。その回数は過去18年間で恐らく3桁ほどにはなっているだろう。

ようするに、可愛ければ誰だっていいのだ。

「あの・・・。ダンス部、ってここでいいんですよね」

黎は北の頬をぺしぺしと叩いている朱里の目の前に立つと、二人をゆっくりと見下ろす。人の気配にようやく意識を取り戻したらしい北の瞼が、ゆっくりと上下した。

「ええ、そうだけど・・・?」

朱里は顔一杯に疑問符を浮かべながら見知らぬ男を見上げた。さっきの瀬古といい、中切といい。また彼女の敬愛する兄貴分をいじめにきた人間なのだろうか。北が起きたらしいことを確認すると、朱里は彼の肩を自らの胸にぎゅっと抱き寄せる。先輩が弱っている今、彼を助けることができるのは彼女だけだという使命感に駆られて。

不自然に熱意の篭った声で黎は言った。

「俺、ダンス部入ります」

「え、今なんてー」

朱里の甲高い声は後からやって来ただみ声に盛大にかき消される。

「えええええええ?!なんでよりによって北の所に?!春日井くん、気は確かなの?!こいつのとこなんか入ったらもう一生人生負け組決定だよ?!北とおんなじになるんだぜ?!それでもいいっていうのかよ!」

ようやく追いついた中切が絶叫した。

「ナオ先輩は負け犬なんかじゃないッ!先輩に酷いこと言うのはやめてよ!」

「そうですよ。彼女は可愛いし、純粋で、まっすぐです。こんな清らかな女性この地球上どこ探したっていません」

「それ姉貴のことじゃん。先輩関係ないじゃん」

とはその場にずっといた事を忘れされつつある光。

「いやいやいや。他にも入る部活は沢山あるよ!ダンス部だけは辞めなって!」

腕を大げさに振り回しながら中切が喚く。北を選ぶ人間がこの世に存在するという事実が相当受け入れがたかったらしく、その顔は今や完全に血の気が引いていた。ある意味それは信仰を完全否定されて自己崩壊に陥る時の信者の顔に似ていた。というとさすがに言いすぎだが。

「ー別に俺がどこの部を選んだって自由ですよね。それに俺が誰と付き合ったって」

「いや、そうだけどさー」

「いや、姉貴は誰とも付き合わないし」

残念なことに、光のツッコミに耳を傾ける者はこの場には居合わせていないようだ。その貴重な指摘のすべてが、春の風に溶けて消えていく。

朱里はぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる中切と、あくまでダンス部入部の意思を曲げない黎の会話の行方を不安げな様子で見守っている。北はただただこの展開についていけないらしく、目を白黒させているだけだった。考えようによっては、ここにいるすべての人間の中でもっとも役に立ってない人物でもあった。

「ーさっきも言ったと思いますが、オレの大学生活での最大で唯一の目標はー」

黎の手がびりびりと音を立てて先程記入したばかりの入部届を紙切れにしていく。十分な小ささに引き裂いた、と確信した彼は掌をぱっとひらくと、紙吹雪がはらはらとなって舞う。すこし遅い桜吹雪の中、黎は声高らかに宣言した。

「ー彼女を作ること、です!」

「ダンスも関係ないし」

言いたいことを言い終えた黎は、呆気にとられた一同を意に介すことなく今度は北のほうへと向き直ると、ぺこりと軽く頭を下げた。

「そういうわけで、これからよろしくお願いします」

お嬢さんを僕に下さい的なニュアンスを含ませながら。そんな黎の思惑など一切知らない北は、歓喜と困惑がないなぜになった複雑な表情を浮かべると念のためもう一度黎の意思を確認する。彼の人生で、彼のことを受け入れてくれたのが彼の両親と守山双子以外に存在しないことを考えると彼の戸惑いは無理もないことといえた。彼の人生は否定と拒絶の連続だったのだから。それがー向こうからやってくるとは。

「つまり君は・・・ダンス部の栄えある4人目のメンバーになりたいというこー」

そう口を開きかけた北の脇をすり抜けた黎は、脇目もふらずに一直線に朱里の元へと進む。彼渾身の『爽やかな笑顔』を浮かべると、握手を求めて彼女へと手を差し出した。何故かいつもこの笑顔を浮かべるとビンタを食らったり、先生に通報されたりすることがほとんどだという事実は彼の脳裏からは抜け落ちているようだ。

「オレ、黎。春日井黎。商学部の1年。よろしく。あ、黎って呼んでいいから」

朱里は黎に弾けんばかりの眩い笑顔を向けた。その笑顔が輝きすぎて、黎は思わず立ちくらみを起こしそうになる。朱里は黎の手をしっかりと握ると、

「私、守山朱里!こっちは双子の弟の光。私達も商学部なの!おんなじだね!」
「オレはー」
「マジで?じゃあ一緒に授業でちゃったりできるじゃん!早速連絡先交換してー」
「って、オレのことは無視かよ」

 部活だけでなく、所属学部まで同じとは。こんな些細な一致にも運命を感じてしまう。これなら朝から夜まで同じ授業に出席したり、昼食も一緒にとったり、はてまた放課後の部活動まで文字通り四六時中彼女と一緒にいることが可能ではないか。もうこれは出会うべくして出会ったのだと―神の意思を感じざるを得ない、と黎は一人結論づけた。

つまり、目の前の女性―守山朱里こそ、彼の運命の女性。

「うん、わかったー。私も朱里でいいよ。これから仲間として一緒にがんばろーね、レイ!」

別にダンスそのものには何の興味もないがーこれは、定めなのだ。彼が静岡に越してくることになったことも、商学部を選んだことも、ダンス部に入部したことも。黎は笑顔を全開にすると朱里の手をゆっくりと振る。

今日から、彼の静岡での新しい生活が始まる。

「こっちこそよろしく、朱里」

ーそう、全ては守山朱里に近づくために。

(2話に続く)