深淵のグラヴィダーデ
序章:物理学者たち
重力は蒼い―。
と私が言っても、この本を手に取る読者の皆さんには何のことかさっぱりわからないだろう。それはそうだ。私達は『海』を見たことがない。
いや、そんなことが存在していたことすら知らないのだ。80年ほど前の地場変動は、それまでの地球の姿を全く異なる姿に変えてしまった。
かつて、そこにあった世界。私達の足元の、遥か下方に存在していたその世界では、重力は蒼色だった。
今、我々が暮らすこの31世紀の世界には、重力に色はない。私は、本書で古い歴史書を紐解きながら『蒼い重力』について解き明かしていこうと思う。
―『蒼い重力―地場変動前の地球とその自然環境』3017年発行
マティアス・ファルケ著序文より―
BC 3017,新リスボン、ポルトガル:モスカヴィデ地区
初夏のまだ暑くなりきれていない温かい風が、木々に芽吹いたばかりの新芽を揺らしてさらさらと耳障りの良い音を立てる。自然が作り上げるノイズをBGMに、今年小学校に上がったばかりのラケル・アナ・メデイロスは自宅の広大な庭で読書に勤しんでいた。こうやって父の書斎からこっそり持ちだした本を読み耽るのが6歳になる彼女の放課後の日課だった。簡素ではあるが、一般家庭には広すぎる敷地を持つメデイロス邸では子供の秘密のアクティビティには事欠かない様々なスポットがあって、その中の一つがこの大きなオリーブの木の下のベンチだった。たわわに茂るオリーブの葉が、程よく日光を遮り心地の良い日陰を作り出している。
本当はリンゴの木が欲しかったのだけど、リスボンの気候ではそれはちょっと難しい。
ラケルは読書が好きだ。読書、というより新しい事、自分が知らないことを知ることが好きなのだ、というのが正しい表現だろう。彼女の人並み外れた好奇心は、ただ心に浮かんだ疑問を周囲の大人たちに訪ねて回るだけではもはや満たすことができなくなり―ついにその活路を書物に求めるようになったのだ。―それも、子供用に書かれたものではなく。
彼女は世間一般でいうところの『天才』児童だった。6歳ではまず読みこなすことの出来ない高度な書物を読み、其の内容を瞬く間に理解してしまう。それが災いしてか学校では明らかに周囲の子どもたちからは浮いた存在になっていたが、彼女がそれを苦痛に感じたことはない。彼女は、いつも落ち着いているようでその実、どこか雲の中にいるような―そんなフワフワしたところのある印象をあたえる子供だった。もし彼女が高名な科学者、フェデリコ・メデイロス博士の娘でなかったのなら、きっと変人としてもっと世間からひどい扱いを受けていたのだろう。そういう意味では彼女は十分に恵まれていたし、彼女自身も自分が特権階級にいることを薄々ながら理解していた。
そして、特権階級に属するものは特権階級としての義務をも負っていることを。そして彼女は死ぬほどそれを嫌悪している。
この場所はいい。邸宅のテラスからは丁度死角になっているし、鬱蒼と当たりに茂った樹木のお陰で自然の秘密基地のような体裁を為している。これなら煩い近所の子供の叫び声に集力をかき乱されることもないし、母親や父親にまた貴重な本を無断で持ちだしたことを咎められることもない。
隣人の同い年の娘、アナはラケルを『上流階級の子女クラブ』へ引きずり出そうと日夜無駄な努力を続けている。無駄だ。アナがどんなに手を尽くそうと、ラケルはそんな上辺だけの社交クラブに興味はないし、参加する気もさらさら無い。
ラケルの興味感心は、たった一つだけ。
それは―。
「ラケル、こんなところにいたのか。君のお母さんが探していたよ」
ラケルは声がする方に振り返った。父親の友人であり同業者であるロドリゲス博士が立っていた。同じ物理学者である彼はこうやってメデイロス家を訪れては学問上の議論を交わしている。とはいってもその内容は早熟の天才児、ラケルの頭脳をもってしても理解が及ぶ範囲を遥かに越えている。当然だった。メデイロス博士とロドリゲス博士といえば、ポルトガル物理学の世界では一二を争う権威なのだから。
「博士。母はなんと言ってましたか」
「友達が電話してきたと」
「・・・またアナだわ。もう何度も行かない、って言ってるのに、しつこいんだから・・・」
ラケルは少し苛ついたような表情を浮かべると緩くカールがかったブルネットの髪を肩から払いのけた。博士は少女の手の中の本に視線を落とす。タイトルは―『蒼い重力』、マティアス・ファルケ著―と読めた。その本は、23世紀に起きた宇宙規模の地場変動による地球環境の変化以前の地球について書かれた歴史書で、たしか最近出版されたばかりのものだったと彼は記憶を辿る。彼女が自力でそれを入手したとは考えにくいから、大方彼女の父親の書斎から勝手に持ちだしたものなのだろう。
「アナ・ソウザか。ソウザ弁護士の娘さんだね」
ラケルは頷いた。
顎に手を当てると、博士は物知り顔で頷く。ソウザ家はリスボンでは知らない人のいない著名な一族で、無数の法律家や弁護士を輩出していることで有名だった。ラケルにとって不幸なことには、アナは典型的なソウザ家の人間の特徴をしっかり受け継いでいて―非常に交渉上手で、そして―良く言えば粘り強く、また悪い意味で―とてもしつこいのだった。
ラケルは耳元で騒ぎたてるアナの様子を想像するとうんざりしたような表情を浮かべて、深々と溜息を付く。一度見つかってしまえば逃れられない。
「ねえ博士、お願いがあるの。私がここにいること、お母様には黙っていてくれるかしら」
「つまり、私は君を見つけられなかったということにしてほしいのかい」
「ええ。私、どうしても今日中にこの本を読み終えてしまいたいのよ。アナの自己満足に付き合っている暇なんか無いわ」
「社交サークルを、自己満足とは―辛辣な言い草だね。社交場にも、それなりの役割はあるものだよ」
「そうだとしても、私には関係のないことよ。アナがそういう世界に自分の立ち位置を確立したいのなら、すればいいんだわ。―私抜きでね。ー私には私の世界があるんだもの」
その口から飛び出す言葉は一桁の子供とは思えないが、不機嫌そうに口をとがらせる仕草がだけが彼女がまだほんの子供であることを示す唯一の証拠のようだった。ロドリゲス博士は友人の世間離れした娘のそんな様子に思わず微笑んだ。背伸びしていても、彼女はまだ6歳なのだ。
「物理学の世界かい」
「ええ。いつか私も父のように、物理学の世界を切り開く一流の学者になりたいの」
「夢をもつのはいいことだ。でも、友達付き合いも大切だよ。―人は一人では生きられないんだ」
「どうして?他の子供と親睦を深めるより、勉強するほうがずっといいわ。物理学の進歩は私達の生活に役に立つけれど、社交はそうじゃないわ。物理学がなかったら、どうやってこの世界で生きていけるというの?」
ラケルはやや大げさに両腕を広げると、肩をすくめる。その瞳には、無数の疑問符が浮かんでいた。この子はまだ世界を知らないのだ。彼のいうことが理解できなくても仕方がない。しかし、人生の先達として彼女に伝えるべきことは沢山ある。―それは、学問の知識だけではない。
博士は微笑を絶やすこと無く、ラケルに優しく語りかけた。いつか、彼女が成長した時―世界にその一歩を踏みだそうとする時、彼女の脳裏に彼が語ったことが蘇ることを願いながら。
「学問だけが、この世のすべてじゃないよ。世の中には、一見役に立たないように見えて、その実本当は何よりも大切なこともあるんだ。」
「―博士の言っていることが、よくわからないわ」
ラケルは不思議そうに首をかしげた。
「―時期に分かるさ」
2章に続く